貿易はマニラのスペイン人移民に職を与えた。マニラ・アカプルコ・ガレオンは250年間(1565年~1815年)で合計110隻に達した。1593年までは、両港から毎年3隻ずつ以上の船が出ていた。マニラ貿易が非常に有利になると、セビリャの商人たちは自分たちの損失をフェリペに申し立てた。1593年の法律によって、両港から年間2隻ずつの運航に制限され、また両港に1隻ずつ予備船を置くとされた。武装護衛艦を付属させることは認められた。
こうした制限から、可能な限り大きな船を建造する必要が生じた(ガレオン船は当時最大級の船だった)。16世紀、ガレオン船は平均1700~2000トンで、フィリピンの木材で建造され、1000人の乗客を運ぶことができた。1368年に沈んだコンセプション号は全長43~49m(140~160フィート)で、排水量2000トンだった。ほとんどの船はフィリピンで建造され、メキシコで建造されたものは8隻にとどまった。マニラ・ガレオンは1821年のメキシコ独立で終焉を迎え、以後フィリピンはスペイン王の直接統治領となった。(1800年代半ばには、蒸気船発明とスエズ運河開通によってスペインからフィリピンまでは40日で行くことができるようになり、統治は容易になった)
アスペン ビジネス支援情報
青粋ライフスタイルパートナー情報
バタフライ健康百科ガイド
アタリ買い物生活COM
塾・英会話関連暮らしの学習検索エンジン
特産物・観光関連バカンス情報
デブリン美容全国通信情報
ピツトイン 経済支援情報
ポックル生活・暮し情報
ツンドラ健康・医学コラムネット
マニラ・ガレオンは香料諸島の香辛料、中国・東南アジアの磁器、象牙、漆器、絹製品を南米に運んだ。中でも中国産の絹織物が多くの割合を占めたため、アカプルコ行きの船は「絹船」と呼ばれることもあったという。日本が1638年に鎖国するまでは、日本との貿易もあった。積荷はアカプルコからメキシコを横断し、カリブ海に面した港ベラクルスまで陸送され、そこからスペイン財宝艦隊に積み込まれスペインに至った。この航路では、インド洋を渡り喜望峰を回るという危険な行程を避けることができた。喜望峰はオランダ制海権下にあった。スペイン人は、メキシコを横断するよりも、パナマ地峡の方が遙かに陸路が短距離で済むことを知っていた。彼らはパナマ地峡に輸送路を整えようとしたが、うっそうと茂るジャングルとマラリアに阻まれた。
ヨーロッパでは中国製品が珍重されたが、中国は自給自足していた。中国市場で求められた唯一のものが、サカテカスとポトシで産出するアメリカの銀だった。銀はアカプルコからマニラに運ばれ、マニラ行きの船を「銀船」と呼ぶこともあったという。新大陸の銀のおよそ1/3が、この航路で中国に運ばれたと考えられる。また、布教を目的とした宣教師が多く乗り込んでいた為、「ガレオン船は銀と宣教師を運んでいる」とも喩えられた。マニラから太平洋を渡ってアカプルコに着くまで、4ヶ月を要した。マニラ・ガレオンはフィリピンとメキシコ副王領の首都メキシコシティとを結ぶ連絡経路の中心だった。フィリピンのスペイン人の多くはメキシコの流れをくみ、また実際フィリピンにおけるスペイン文化はメキシコのそれに近い。メキシコ独立後も、米西戦争中を除いて、貿易は続けられた。マニラ・ガレオンは3世紀近くにわたり太平洋を行き来し、財宝、利益、文化をスペインにもたらした。
難破したマニラ・ガレオンは、カリブ海に沈んだ財宝船に次ぐ伝説といえる。1568年、レガスピ所有のサン・パブロ号(300トン)がメキシコに向かう途中で難破した。マニラ・ガレオン最初の難破であった。
アカプルコ・ガレオン、ナオ・デ・チーナとも呼ばれる。